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院長プロフィール

Profile

院長 溝井優生の夢
私が歯科医師になった理由

幼少の頃

2200g。これは私が産まれたときの体重です。
いわゆる、未熟児として産まれてきました。産まれてすぐ、母親に抱かれることもなく保育器の中で過ごしていたそうです。その影響で、私は小さい頃から身体が弱く、頻繁に風邪や気管支炎などで病院に通っていました。
幼稚園に入る6才くらいまで、ほぼ毎日のように通院していました。また、いつも母親に連れられて病院に通っていたこともあり、母親っ子として育ち、いつも母の後を追いかけ回していたような子供でした。

当時から母は衛生士をしていたので、歯の手入れは徹底的にしてもらっていました。おかげで、歯の大切さを幼き頃から自然と感じて育ったように思います。

父親は、母親とは対照的にとても厳しい人でした。口より手が先に出るような典型的な昔ながらの父親という感じでした。

父親は歯科医師ではなく一般の会社員だったのですが、仕事が忙しかったことと、多趣味なこともあり、平日も週末もほとんど一緒に遊んだ記憶がありません。
なので、たまに遊んでくれたときの嬉しかった記憶は今でも鮮明に残っています。
父親は海が大好きな人で、一緒にヨットに乗ったりしたことが、今でも一番の思い出です。ヨットに乗って花火を見たり、無人島に行ってキャンプをしたりしました。遊びの時も厳しい父親でしたが、とても嬉しかったです。

母親と父親のタイプは対照的ですが、今思えばとてもバランスの取れた両親だったのかなと感じます。昔は感情をうまく表に出すことができませんでしたが、厳しくも優しく育ててくれた両親には、本当に感謝しています。

また、小さい頃から虫や生き物が大好きで、ポケットにいつも「だんご虫」を入れているような、ちょっと変わった子供でした。

2200g。これは私が産まれたときの体重です。
いわゆる、未熟児として産まれてきました。産まれてすぐ、母親に抱かれることもなく保育器の中で過ごしていたそうです。その影響で、私は小さい頃から身体が弱く、頻繁に風邪や気管支炎などで病院に通っていました。

幼稚園に入る6才くらいまで、ほぼ毎日のように通院していました。また、いつも母親に連れられて病院に通っていたこともあり、母親っ子として育ち、いつも母の後を追いかけ回していたような子供でした。

当時から母は衛生士をしていたので、歯の手入れは徹底的にしてもらっていました。おかげで、歯の大切さを幼き頃から自然と感じて育ったように思います。

父親は、母親とは対照的にとても厳しい人でした。口より手が先に出るような典型的な昔ながらの父親という感じでした。

父親は歯科医師ではなく一般の会社員だったのですが、仕事が忙しかったことと、多趣味なこともあり、平日も週末もほとんど一緒に遊んだ記憶がありません。

なので、たまに遊んでくれたときの嬉しかった記憶は今でも鮮明に残っています。父親は海が大好きな人で、一緒にヨットに乗ったりしたことが、今でも一番の思い出です。ヨットに乗って花火を見たり、無人島に行ってキャンプをしたりしました。遊びの時も厳しい父親でしたが、とても嬉しかったです。

母親と父親のタイプは対照的ですが、今思えばとてもバランスの取れた両親だったのかなと感じます。昔は感情をうまく表に出すことができませんでしたが、厳しくも優しく育ててくれた両親には、本当に感謝しています。

また、小さい頃から虫や生き物が大好きで、ポケットにいつも「だんご虫」を入れているような、ちょっと変わった子供でした。

小学校時代

学校に入ってから、弱かった身体を鍛えるために、空手を始めました。最初は練習が大変でしたし、試合をやっても負けてばかり。身体を鍛えるために通っていたはずが、いつもケガをして帰っていたので、親からも心配されていました。

練習に行きたくないときもありましたが、生来の負けず嫌いを発揮して練習を続けていくうちに、次第に空手が上達していきました。同時に身体もどんどん健康になっていき、空手も好きになり、熱中していきました。

結局空手は中学校1年生まで続けたのですが、「茶帯」という位までいきました。小学校中学年以降は身体をこわすこともなくなり、小さい頃には考えられないくらい健康になりました。

今も、元気に仕事をできているのは、この頃に空手を一生懸命にやったおかげだと思っています。

高校時代

中学校時代は軟式テニスをやっていました。
高校でもテニスをやりたかったのですが、軟式テニス部がありませんでした。

でもスポーツはやりたい。ただ、野球やバスケは中学生からやっている人には敵わない。それに新しいことにチャレンジしたい。そこで、たまたま目に付いたのが「ゴルフ部を作ろう!」というチラシでした。

「これだ!」と思った私は、迷わずゴルフ部に入りました。そこから今度はゴルフに熱中する高校時代が続きました。今でこそ石川遼選手や、多くの若い女子選手の影響でゴルフをしている学生は増えているようですが、当時はほとんどやっている人はいませんでした。

実は、兵庫県の公立高校で唯一のゴルフ部だったのです。電車通勤をしていたのですが、学ランでゴルフバッグを背負っていると、周囲から奇異な目で見られたものです。

また、顧問以外のゴルフ好きの先生達とラウンドをしたりもしていました。ラウンドに行くときになると、なぜか多くの先生が引率してくれていました(笑)こんな、普通の高校生ではなかなかできないような多くの体験をした高校時代でした。

そして多くの患者様に
『感動』を

今でも祖父が私に話してくれたことを大切に、また、患者様のお口の健康を実現し、人生を豊かにするために頑張っています。

私は溝井歯科医院を、「怖い」「行きたくない」という歯科医院ではなく、みなさんに親しんでいただける、そして多くの患者様に『感動』を与える歯科医院にしていきたいと思っています。

院長溝井 優生

Dental Treatments